大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した
別冊NHK100分de名著 集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した | NHK出版
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100分de名著
感想
読んで良かったblu3mo.icon
大乗仏教が釈迦の教えとどれくらい隔たったものであり、その一方でどういう点に共通性があるのかを、できるだけ客観的に提示することも大きな目的だったのです。ともかく釈迦の教えから密教に至る、仏教の全体的な流れを一冊の、しかも読みやすい本として示すことで、仏教を考える際の物指しとして使っていただきたいという思いです。
大体この通りの読書体験だったblu3mo.icon
今までは仏教に関する話題を見てもどれが同じ体系内の主張なのかわからず、断片的な知識を接続できていなかった
そこを接続するための脳内マップをある程度構築できた気持ち
仏教哲学的な面白さはあまりなかったblu3mo.icon
仏教における宗教的なものと哲学的なものを整理して捉えるための前提知識は得られたので、今後は後者をもっと掘っていきたい
もう二冊くらい読んでこの本の主張を相対化したい気持ち
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以下メモ
ブッダの時代はまだ文字が普及しておらず
しばらくは口伝
その数百年後に文字で書き残す文化が定着したので、文字でも記録されるようになった
それがお経
こういうメディアによる文化の変化はよく聞くけど、「文字」レベルでも起きているのおもろいblu3mo.icon*2
よね。そうではなく、私が注目したのは「多様性」、つまり選択肢の広がりです。一つの教えが様々に枝分かれしながらも、それぞれが否定し合うことなく、仏教という一つのジャンルの中で並存できたことが、仏教が世界に拡大していった最大の理由だと考えるのです。
なるほどblu3mo.icon
方便みたいな話かな
そこが興味深いところなのですが、必ずしもそれまでの宗教を捨てたというわけではないのです。今までどおりキリスト教の信念を貫きながら、仏教的な生き方を実践している人も欧米には多くいます。つまり、そうしたスタイルすら許してしまう教義の多様性が仏教にはあるということなのです。
Plurality的な構造をイメージした
分人とかなめらかな組織とかそういうやつ
破僧の定義を変更することで分裂を防ぎつつ多義的な共存を許した
破僧には二つの定義があることを述べた文章が見られます。 「破僧には二種類ある。一つはお釈迦様の教えに背く教義をとなえることであり、これを破法輪(チャクラベーダ)と呼ぶ。もう一つは儀式を一緒に行わないことで、これは破羯磨(カルマベーダ)と呼ぶ」
アショーカ王の時代に破僧の定義が変更されたことで、「仏教の教えの中にもいろんな解釈があっていい。異なる考え方をもつ相手を否定するのではなく、互いに仲間として認め合おう」という状況が生まれました。これによって部派仏教の時代が到来した、
解釈の多様性を超え、二次創作が始まる
長い歴史のどこかで「昔から伝わっているお経には書かれていないけれども、論理的に正しければ、それは釈迦の教えと考えてよいのではないか」と主張する一団が現れます。
大乗仏教、理想高めかつ在家でもブッダになれると思っている
在家・出家を問わず、誰もがブッダという最高の存在に到達できる」という新たな理想が現れてくるのです。
の膨大な労力が必要となる。それではあまりにもきつい。ほかに道はないのか。愚かな私たちにも可能な、より効率的な成仏の道はないのか。この問題提起こそが、様々な大乗仏教を生み出す源泉となったのです。
大乗仏教の「その生物/人間として正しい生活を送ることで何か神秘的リターンがある」という考え方は色々な思想で聞き覚えあるな
「うさぎに生まれ変わったならうさぎとして正しい生活を送れ」みたいな
大乗仏教、利他の気持ちを持って行動すべし 自己犠牲的なイメージ
さらにそれを拡大解釈し
です。しかし「日常の善行」をもっと別の行為に置き換えることも可能です。  たとえば私たちが墓参りで手を合わせることを「善行だ」と考えるのと同じで、ブッダを崇め、供養することを善行とする考えが現れるようになり、
大乗仏教の教えで最大のネックとなるのが、「実際にはブッダと会えないこと」なのです。そのために大乗仏教では、会えないブッダにどうすれば会えるのか、実際には会えないブッダと会ったことをどうやって人々に納得させていくのか、様々なアイデアを練っていくことになります。それが大乗仏教の面白さであり、真骨頂なのです。
会いにいけるアイドルみたいなフレーズを思い出すblu3mo.icon
ブッダ、idolすぎるな
釈迦の仏教」では、この世は、「天・人・畜生・餓鬼・地獄」の五道(のちに「阿修羅」を加えて六道)からなり、私たちはその間で生まれ変わり死に変わりを延々と繰り返すことになっています。もし、あなたが一生懸命に善行を積めば、その善行の力で来世は苦しみのない世界である「天」に生まれ変わるかもしれません。しかし、ここが肝心なのですが、その天も輪廻の一領域にすぎず、
天国地獄的な概念もあるけど、あくまでもさまざまなレイヤの一つとして描いている
人としての苦しさを相対化していると捉えられる
悟りはこのレイヤから抜け出すメタ的なプロセス
般若経
めっちゃある
最古 八千頌般若経
禅宗(曹洞宗(*)、臨済宗(*)、黄檗宗(*)など)と密教系の宗派(天台宗(*)、真言宗(*)など)が、特に『般若経』を大切に扱っています。逆に浄土真宗ではとなえません。また、日宗(*)・法華宗(*)も『法華経』だけを基本の教義としているので、『般若経』をとなえることはほとんどないようです。
天台宗真言宗はまあまあイメージが湧くが、それ以外は何も知らない
学校で聞いたな〜くらいの記憶
「釈迦の仏教」では、出家修行の中で煩悩を断ち切ることこそが、悟りに至るための唯一の方法と考えられていました。それが『般若経』では「日常の生活で善行を積み重ねていけば、悟りに近づくことができる」と変わってしまったのです。
なんか起きていることをメタ的に捉えるとまだ面白いが、内容自体は現時点ではあんまり面白くないblu3mo.icon
メタ的 = これがなぜ宗教として広まるのに適していたのか、など
古い時代のお経が、業のエネルギーには輪廻を助長する働きしかないと考えていたのは、縁起と呼ばれる因果則の裏側に隠されたもっと崇高なシステムに気づかなかったためで、じつはその因果則の裏には、善行によって得たエネルギーをブッダになるための力に振り向けることができる、より上位のシステムが隠されていたのだ、と。
元々、業エネルギーは輪廻を助長するので善行をしても悟りようがない
それを変える仕組みがある、と
これを空と呼ぶ
おっと?blu3mo.icon
これは自分の知っている空とは違いそうblu3mo.icon
そうでもないのかも?説明している
釈迦の仏教
そのような「肉体」と「心の働き」が、目や耳といった感覚器官によって連結され絶えず変化しながら、かりそめのまとまりをなしている、それこそが「私」だとお釈迦様はとらえたのです。それを知ると、お釈迦様が「この世のものは空であると見よ」と言った意味が理解できるはずです。
それはそう、納得しているblu3mo.icon
唯識的な世界の見方だという理解
https://gyazo.com/e30123924a018b9601a7ba6c6563a649
しかし『般若経』では、お釈迦様が実在すると考えた「五蘊」などの、世界を構成している基本要素すらも「実在しない」ととらえたのです。
そのような「肉体」と「心の働き」が、目や耳といった感覚器官によって連結され絶えず変化しながら、かりそめのまとまりをなしている、それこそが「私」だとお釈迦様はとらえたのです。それを知ると、お釈迦様が「この世のものは空であると見よ」と言った意味が理解できるはずです。
おお?
行き過ぎた相対主義、独我論に聞こえるblu3mo.icon
こう言ってしまえばいくらでも釈迦の定めたシステムも変更可能
因果則の転換を行い、日常の善行を悟りへのエネルギーに使うことができると考えれば、ハードルはぐっと下がります。出家して特別な修行をせずとも、在家のままでブッダへの道を進むことが可能となるのです。そこへ向かうには、「釈迦の仏教」が構築した世界観を一度無化し、「空」という概念を作り変えるしか方法はなかったというわけです。
なんか、そうだね、、という気持ちになっているblu3mo.icon*2
自分がブッダになるために最も効力がある行為は、実際のブッダと直接会って供養することです。ですから、『般若経』を法身と定めたことで、ブッダになるまでのスピードアップが格段にはかれるようになったのです。
お経と接すればブッダど接したことになる
そうですかblu3mo.icon
塩対応ウケるnishio.icon
が、『般若経』には、そういうことがあらかじめ書かれているのです。「『般若経』をとなえなさい、書きなさい、広めなさい」という自己増殖のためのプログラムのようなものが、お経に最初から仕込まれている。だからこそ、どんどんお経がコピーされて広まっていくことになったのです。今も書店に「『般若心経』・写経セット」などと題して、『般若心経』と写経用紙が一緒になっ
古代のグロースハックだ
たしかに神秘や不思議な力という話を持ち出すと、怪しく感じる人も多いでしょうね。しかし、「神秘」と言われて抵抗を感じる人は、「神秘」と「迷信」を混同しているからではないでしょうか。神秘と迷信は似て非なるものです。迷信とは目の前に現れた二つの現象の間に誤った因果関係を想定することです。
一方の神秘とは、世の中の現象の奧に、人智では説明不可能な力を感じ取ることです。
人智を超えた力というと、怪しく聞こえるかもしれませんが、『般若経』は神秘の力というものを新しく加えたことで、新たな「救い」の要素が導入されたのです。
神秘をプラシーボと読み替えていいなら納得できるblu3mo.icon
『般若経』が神秘の力を教えの中に潜ませたことで、「釈迦の仏教」が考えていた因果則は無化され、すべてが漠然としてしまったけれども、逆にそうなったことで新たに救われる人も出てきた、とプラスに考えればよいということですね?
じゃあ自分はあんまり興味ないなblu3mo.icon
法華経
智顗、古代中国
『法華経』こそが釈迦が本当に言いたかった、最も上位の教えであるとしたのです。なぜ智顗が『法華経』を最高位に置いたかと言えば、『法華経』が「誰でも仏になれる」という教えを強く主張したからです。
もともと比叡山は、最澄があらゆる仏教の教えを統合するものとして『法華経』を位置づけ、このお経を中心に仏教全般を学ぶための〝総合大学〟として開いたのが起源です。
そこから日本仏教に広く広がっていった
ベースのメカニズムは般若経と一緒
アプデ事項
お釈迦様の教えとの間に食い違いが生まれてしまうのです。そこで『法華経』では、「釈迦の仏教」と整合性をつけるため、「初転法輪(*)」を書き換えることにしたのです。
むちゃくちゃ言ってるな
いずれにしても、前に存在していた「釈迦の仏教」や『般若経』を無化して、一段上の教えを示すためには、そうやって話を作り変える必要があったわけです。「方便品」には「一仏乗を信じない者は地獄に堕ちる」とまで書かれていますが、こうしたくだりを見ても、『法華経』が「なんとしてでも前に存在したお経を超えなくてはならない」という強い意図を持って作られたものであることがわかってきます。
こういう、グロースの意図を持って作られたプロダクトだと思って眺めている分にはおもろいblu3mo.icon
まあ方便ロジックでなんでも書き換えられるなblu3mo.icon
すごい話になってきましたね。『法華経』を拝めば、悟りを開いてブッダになれるだけではなく、病気も治るし、美女や美男にもなれてしまう。まさに『法華経』は万能薬というわけですか。現世利益につながるのは有り難いですが、そこまで言われるとなんとなく疑わしくも感じてしまいますね。
富永仲基(*)という江戸時代の学者が、こうしたお経の成り立ちに注目して「加上の説」というものをとなえています。「すべての思想や宗教は前にあったものを超えようとして、それに上乗せしながら作られていった」と考えるのが、富永の加上の説です。
歴史的にどこが最初に書かれた部分であるのかにまずは注目し、それがなぜ書かれたのかを歴史を遡って考えていく。そうしたプロセスを踏んでこそ、今まで見えなかったものがはっきりと見えてくると私は思います。
そうねblu3mo.icon
ただ「オリジナルこそが正しい」という話でもない
もっとpragmaticな考え方も可能
ます。「釈迦の仏教」からは、『法華経』よりもさらに遠くに行ってしまった印象は否めません。でも、それはそれで価値を認めるべきです。宗教に正しいも間違っているもありません。大事なのは「それを信じた人が幸せでいられるかどうか」、この一点のみです。
浄土教
日本で浄土教系の宗派と言えば、法然の説いた浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗が有名ですが、良忍の融通念仏宗や天台宗も、その教義の中に浄土信仰を取り入れています。
末法思想のやつ
末法思想とは、「お釈迦様が亡くなってしばらくすると、正しい仏教の教えが衰退し、現世で悟りを開くのが不可能な時代が訪れる(末法の時代が訪れる)」という仏教の予言・歴史観のことを指します。
南無阿弥陀仏とさえ唱えれば良い
『般若経』や『法華経』では、過去に私たちはブッダと出会っているのだから、すでに私たちは菩薩である、と考えたのですよね?
そのとおりです。一方の浄土教はどう考えたかと言うと、「私たちはまだ菩薩にはなっておらず、これからブッダと出会い菩薩になる」ととらえました。
あ〜なるほど 面白いblu3mo.icon
もはや現世やこの世界線に期待せず、来世以降の出来事のためにとりあえず今できることをやっておこうみたいな感じか
て「私たちが生きているこの世界とは別の場所に、無限の多世界が存在している」と、まずはとらえることにしたのです。つまり、『般若経』や『法華経』が「時間軸」に注目したのに対して、浄土教は「空間軸」の広がりに目を向けた(*)のです。そして、その多世界にはブッダがいる世界といない世界の二つが存在すると仮定して、ブッダのいる世界を「仏国土」と呼びました。
パラレルワールド
浄土教ではそうは考えませんでした。『般若経』も『法華経』も、「人助けが修行になる」という本来の考えを修正して、最終的には「ブッダや、お経そのものを崇めることが最も功徳になる」と説くようになりましたよね。じつは浄土教も「人助けよりも、聖なるものを崇拝することこそが最も効果的な修行になる」ととらえて、「ブッダを拝むという行為が簡単に行える場所」を理想の世界としたのです。
仏教では一つの世界(仏国土)には、一人のブッダしかいないことになっているので、一般的な仏国土に生まれ変わっても、ブッダを拝む機会は限られてしまいます。そこで浄土教では、「別のブッダがいる仏国土へも自由に行き来できる装置」が完備された仏国土を理想世界と考えました。様々なブッダを拝めば拝むほど、自分がブッダになるためのエネルギーが溜まっていくことになるため、そうした装置のある世界にいれば一人のブッダを拝んでいる時よりも、成仏するのが格段に早まることになるわけです。浄土教では、その環境が完備された世界を「極楽浄土」と
極楽浄土ってパラレルワールドだったのかblu3mo.icon
お経ってSFなのでは?blu3mo.icon
いずれにしても、大乗仏教の時代になると「お釈迦様だけが唯一のブッダである」という考え方は薄れてゆき、阿弥陀仏以外にも大日、薬師、阿閦など、様々なブッダが登場してきます。パラレルワールドの概念が作られて「世界は無数に存在する」という話になったことで、タガがはずれてブッダの数は増殖していったのです。
普通に創作されている
南無阿弥陀仏、信仰告白と挙動が似ているblu3mo.icon
極楽浄土の扱われ方は釈迦の仏教とは似ても似つかない
メモ この辺は別に日本の人が作った話ではなく、すべて古代インドや中国で大昔に発生していたやつを日本に持ち込んできている
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華厳経
密教もこの系譜かblu3mo.icon
たのしみblu3mo.icon
めっちゃ長い、色々なお経をまとめた本
から、『華厳経』の最大の魅力は、そうした「悟り」についての部分よりも、そこに示された「壮大で宇宙的な世界観」にあります。お経の大部分が、菩薩行の結果として最終的に到達する世界がいかに素晴らしく、またきらびやかであるかについての記述に費やされているのです。
『華厳経』では「バーチャルはリアルである」ととらえたのです。この論理を理解していただくには、もう少し詳しい説明が必要ですね。まず『華厳経』では、宇宙には様々なブッダが存在するが、それらは「毘盧遮那仏(盧舎那仏)」という一人のブッダにすべて収束されると考えました。つまり、宇宙にはたくさんブッダが存在しているように見えるけれども、もとをたどればブッダは一人だと定義したのです。
もはやSFとして面白いblu3mo.icon
一人のブッダを供養しただけで無限のブッダを供養したことにもなります。そういう意味では、『華厳経』はこれまでのどのお経よりも、成仏のスピードアップ化がはかられるようになった「最強のお経」と言えるのかもしれません。
結局ブッダ供養ゲームではあるのねblu3mo.icon
実際の『華厳経』では「一即多・多即一」(一は即ち多であり、多は即ち一である)という表現を使って、時空を超えた世界観を説明しています。わかりやすく解説した部分としては「因陀羅網の譬喩」が有名でしょう。  因陀羅網とは「インドラの網」という意味です。須弥山の頂上に住む帝釈天(インドラ神)(*)の宮殿に設置された美しい網飾りのことを指します。網の結び目の一つ一つには宝石の玉が取り付けられていて、それらの宝石の表面はほかの宝石を映し出しています。ほかの宝石もさらに別の宝石を映し出すため、映り込みは無限に繰り返されることになります。こうした一つの宝石が無限の宝石を映し出すと同時に、無限の宝石が一つに収まっている状態を「一即多・多即一」と『華厳経』は表現したのです。
フラクタルみたいなイメージ
A = {A, A, A}
『華厳経』では毘盧遮那仏は、宇宙の真理、宇宙そのものを意味する「宇宙仏」と定義されています。宇宙全体に遍満する超越的パワーとしてのブッダです。一方、われわれが知っている人間の形をした釈迦というブッダは、その「宇宙仏」からメッセンジャーとしてこの世界に送り込まれた3D映像の「人間仏」と思っていいでしょう。と同時に、お釈迦様も毘盧遮那仏の映像としての現れだという意味からすれば、「同じ仏」ととらえても間違いとは言えません。
三位一体っぽいなblu3mo.icon
こういう構造の記述が、中央集権的な政権を作りたかった奈良の権力者とマッチしていた、と
なるほど、面白いblu3mo.icon*2
密教
密教においては、「私たちがどうすればブッダになれるのか」という問題は、すでに解決済みというスタンスです。「自分がすでにブッダであることを自覚する」ということが、唯一必須の作業なのです。
「今ある私が仏である」ということに気づき、実感するための神秘的な特殊儀礼です。すでにブッダのいる宇宙の中に私たちは生きているのだから、それに気づけば誰もがブッダになれる、というのが密教の悟りについての考え方です。
悟りの問題は解決済み」としたことで、密教はどんどん現世利益を第一に考える実利的な仏教へと向かっていくことになります。それは、真言宗の開祖・空海の「弘法大師伝説」を見てもわかるでしょう。
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涅槃経
です。「如来蔵思想」を持った時点で、インドの大乗仏教はアイデンティティを失い、ヒンドゥー教と同化する方向に進んでいったのです。歴史の教科書などには書かれていませんが、インド仏教衰退の理由は仏教そのものにあったというわけです。
釈迦の教えから大乗仏教に変化していく過程で、インドではヒンドゥー教と同化していき消えていったという主張
あなた自身がすでにブッダなのです。「自分の中にブッダがいる」という考え方を大乗仏教では、如来(ブッダ)を胎児として体の中に宿しているという意味で「如来蔵思想」とも呼んでいます。のちの日本の仏教は、この如来蔵思想をベースに発展していくことになるのですが、そのはじまりに位置する重要なお経が大乗『涅槃経』です。
どんな生き物の中にもブッダがある
アニミズムと相性が良い
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禅思想
禅はインドではなく中国発祥の思想です。道教(*)などをベースとした出家者コミュニティがまず中国に存在し、それが「釈迦の仏教」の修行の一つである「禅定」(瞑想によって心を集中する修行)と結びついて、仏教集団となっていったのが起源とされています。
自分の中の仏性に気づくとは「主観と客観、自己と世界が分かれる以前の存在そのものに立ち戻る」ことを意味します。そのためには思考を内側に向かわせて雑念を払い、本来の自己を見つめ直すことが基本となります。
一周回って本来の釈迦の教えっぽいこと言ってるのではblu3mo.icon
じつは自給自足を認めたがゆえの必然なのです。自給自足という行為と、釈迦の教えとの整合性をはかるために、禅宗では「日常の生活の中のすべての一挙手一投足が修行である」と説くようになったというわけです。
鈴木大拙、ZENを海外に持っていった人
鈴木の著書は、私たち日本人が普段心の中で思っていること、感じていることを論理的に説明してくれているので、「ああ、私が常日頃感じていたことは、そういうことだったんだ」と改めて理解できて共感を呼びやすいのです。読んでいくうちに頭の中の霧が晴れていく──とでも言えばよいでしょうか。それゆえに彼の著書を読んだ人の多くは「仏教とは何であるかが、ようやくわかった」と思いがちなのですが、彼の著書を読む際は、あくまでそれは「日本固有の仏教をベースに書かれたものである」ことを理解しておく必要があります。
日本仏教
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正統性を主張しがち
これらの説はいずれも、今の自分たちの立場を釈迦と直接結びつけることで、その正統性を示したいという切実な思いの現れです。実際には結びついていないものをどうしても結びつけたいという思いが、本来の学問の姿をゆがめているのです。
この本について
大乗仏教が釈迦の教えとどれくらい隔たったものであり、その一方でどういう点に共通性があるのかを、できるだけ客観的に提示することも大きな目的だったのです。ともかく釈迦の教えから密教に至る、仏教の全体的な流れを一冊の、しかも読みやすい本として示すことで、仏教を考える際の物指しとして使っていただきたいという思いです。
めっちゃそれに役立っているblu3mo.icon
もう一冊くらい読んで相対化したい気持ち
著者のスタンス
たとえば釈迦は、業とか輪廻といった今の時代ならそのまま受け入れることのできないような奇妙な教えを説きました。私はそういった考えを全く信じていませんが、しかしその一方で、二千五百年前の釈迦がそれを認めていたということは当然だと思っています。なぜなら業や輪廻は、当時のインドの人々の間ではきわめてあたりまえの自然現象だと考えられていたからです。釈迦もそういった時代の流れの中で業も輪廻も認め、その上に釈迦独自の「安楽への道」を構築しました。ですから私は、その釈迦独自の見解に深く心を寄せ、信頼しているのであって、当時の一般的通念まで一緒くたにして信じる気はないのです。
このような私の姿勢に対して、「自分にとって都合のよい点だけを勝手に取り出して信奉するのは、仏教徒としてけしからんことだ」と批判する人が大勢おられるかもしれませんが、それはそれで構いません。私独自の仏教者としての本義は、「自分の心に少しも噓をつかないようにして釈迦を信奉する」ということなので、現代の科学的世界観の中に身を置きながら、釈迦の教えで生きていく道はこれしかないと確信しているからです。
なるほどblu3mo.icon*2
自分も同様のスタンスでいるのがしっくりくるblu3mo.icon
だいぶプラグマティズム的なスタンスではある
宗教の存在価値が、私たちを生きる苦しみから救い出すことにあるとするなら、多様な顔を持つ大乗仏教もまた、その真理のエッセンスを取り出すことでいくらでも効能を発揮することができるはずです。このような視点で、大乗仏教の新たな価値を見いだすという作業は、私たち現代人にも大きな恩恵をもたらしてくれるものと確信しています。